廬山寺 紫式部邸宅址 桔梗の花咲く源氏庭

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廬山寺 紫式部邸宅址

京都御所のすぐ西側、

梨木神社 の寺町通を隔てた

東隣にあります。

紫式部邸宅址 源氏物語執筆の地

この地は、

紫式部の曽祖父の中納言 藤原兼輔

(877~933)から伯父の為頼、

父の為時へと伝えられた

広い邸宅でした。

その邸宅は、

鴨川の西堤防に接していたため

「堤邸」と呼ばれ、

それに囚んで兼輔は、

「堤中納言」の名で知られていました。

紫式部は、

百年ほど前に兼輔が建てた邸宅で

一生の大部分を過ごしたといわれ、

この邸宅で、

藤原宣孝との結婚生活を送り、

一人娘の賢子(かたこ)を育て、

源氏物語を執筆しました。

桔梗の花咲く源氏庭

白砂と苔の庭で、

6~9月末までは紫の桔梗が

静かに咲いています。

廬山寺 紫式部邸宅址 8/ 京都 ブログ ガイド

華やかさはありませんが、

落ち着いた静かな気持ちに導かれます。

また、運よく

午前中の早い時間だったので

私の他に参拝者は誰もおらず

廬山寺 紫式部邸宅址 5/ 京都 ブログ ガイド

1人で、ゆったり源氏庭を

眺めさせてもらいました。

廬山寺について

廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、

正式には、廬山天台講寺といいます。

天慶年間938)、比叡山第十八世座主

元三大師良源(慈恵大師)が

京都の北、船岡山南麓に開いた

與願金剛院に始まります。

寛元三年(1245)、

法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が

出雲路に廬山寺を開き、

南北朝時代に、この二つの寺を

兼務した明導照源上人によって

廬山寺が、

與願金剛院に統合されました(1368)

この時以来、寺名を廬山寺から

廬山天台講寺と改めました。

その後、応仁の乱

元亀二年の信長の比叡山焼き打ち

にも遭遇しますが、

正親町天阜の勅命を受け、

天正元年(1573)に

現在地・紫式部邸宅址に移転しました。

廬山寺 紫式部邸宅址 2/ 京都 ブログ ガイド

現在の本堂は、宝永五年(1708)、

天明八年(1788)相ついで焼失後、

寛政六年(1794)に

光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、

女院、閑院宮家より与えられ、

改装されたものです。

御土居

源氏庭の南側に

廬山寺の墓地へ向かう小道があります。

廬山寺 紫式部邸宅址 9/ 京都 ブログ ガイド

源氏庭を外側から引き立てるように

カエデが植えられているので

緑が濃く、なかなか雰囲気が良いです。

紅葉の時期には、

なお素晴らしい眺めになると思います。

廬山寺 紫式部邸宅址 10/ 京都 ブログ ガイド

源氏庭の西側壁の外側にも

木々が植えられています。

廬山寺 紫式部邸宅址 11/ 京都 ブログ ガイド

小道の先に墓地があります。

廬山寺 紫式部邸宅址 12/ 京都 ブログ ガイド

墓地の西の端に、

御土居 の後が見られます。

御土居とは、

天正十九年(1591)に、豊臣秀吉が、

戦乱で荒れた京都の都市改造の一環で

外敵の襲来に備える防塁と、

川の氾濫から市街地を守る堤防として

周囲23キロにわたって築いた土塁です。

東は鴨川、西は紙屋川、

南は九条辺り、北は鷹ケ峯に

沿って築かれました。

ちょうどこの辺りが、

御土居の東端に当たります。

寺務所前の松

廬山寺 紫式部邸宅址3 / 京都 ブログ ガイド

寺務所(拝観入口)前にある松が、

変わっていました。

廬山寺 紫式部邸宅址 4/ 京都 ブログ ガイド

空に向けてまっすぐ伸びず、

途中で急に下の方へ向かって

伸びています。

まるで、

恐竜の首長竜のようです。

なんでこんな伸び方をしたんでしょう?

廬山寺ホームページ

所在地 : 京都府京都市上京区北之辺町397

電話 : 075 - 231 - 0355

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Source: 京都 ブログ ガイド

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