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新京極・寺町・御幸町
新京極・寺町・※御幸町 (ごこまち) は
観光客や地元の買い物客で
賑わっている通りです。
※ 寺町通の1本西の通り
2015年に四条通歩道
( 烏丸通 ~ 川端通、 約1,1キロ )
の拡幅工事が終わり、
歩道が歩きやすくなったこともあり、
四条河原町から御幸町までは、
今まで以上に
人通りの多い場所になりました。
現在は大変賑わっていますが、
平安京の頃には
今の寺町通は存在していましたが、
新京極通と御幸町通は、
共に存在していませんでした。
ここにも秀吉の影響が。
寺町(京極 )通
北は紫明通 ~ 南は万寿寺通辺りで
河原町通に合流しています。
「 天使突抜 ( てんしつきぬけ ) 」
でも書きましたが、
豊臣秀吉が天下を統一した後の
天正十九年( 1591 )、
応仁の乱などで荒廃した
京都の街を整備したときに、
外敵の襲来に備える防塁と、
川の氾濫から市街地を守る堤防として
周囲23キロにわたって
土塁 を築きました。
それと同時に
京都市内にあった多くの寺院を
現在の寺町通に集めました。
このため「 寺町通 」と
呼ばれるようになったんですが、
この時、
本能寺 も油小路蛸薬師辺りから、
現在の寺町御池へ移転してきました。
ちなみに平安京の昔、
三条通以北は東京極大路
( ひがしきょうごくおおじ )
と呼ばれていました。
「 京極 」とは ” 京の果て ” という意味で
当時この辺りは鴨川の河原で、
「 京極 」から東は、
人の住むところではないと
考えられていたようです。
ちなみに、西の ” 京の果て ” は、
「 西京極 」です。
阪急電車京都線の駅名になっています。
このように現在の寺町通に
たくさんのお寺が集められたのには、
東から京都へ攻めてくる軍勢に対する
防衛の意味があったようです。
寺は 応仁の乱 でも
軍勢の本陣などに利用されました。
戦時には城とまではいきませんが、
塀で囲まれており
一定の防御力もあったと考えられます。
上記のようなことが、
応仁の乱の時に災いしました。
お寺は細川 ・ 山名の両軍勢の
本陣や拠点などに利用されました。
攻撃する側としては、
敵の本陣のある寺を
焼き討ちするのが手っ取り早いので、
京都の多くの寺は、
応仁の乱で焼失の被害を被りました。
奇跡的に戦禍を免れたのは、
千本釈迦堂、 三十三間堂、
六波羅蜜寺など、
ごくわずかです。
通常、
京都の通りはまっすぐ伸びていますが、
寺町通は三条通と交わっているところが
斜めにずれています。
これは寺町通にお寺が集められたときに、
京都市上京区の元誓願寺町から
「 誓願寺 」が移されたことによって
生まれました。
また、
寺町通は五条通へ合流していません。
高辻通で交わると万寿寺通とは交わらず
上の写真のように河原町通と、
まるでつじつま合わせのような
合流をしています。
新京極通
新京極通は、 三条通 ~ 四条通までの
ごく短い通りです。
秀吉の整備計画によって、
寺町通にお寺が移転してきたために、
それぞれのお寺の境内が縁日などに
利用され多くの人が
集まるようになってきました。
寺町通の周辺には
見世物小屋なども集まるようになり、
賑わいを見せるようになってきました。
明治維新後、
京都から東京へ遷都したため
京都の雰囲気は沈んでいましたが、
それを打破するべく、
1872年に京都府参事 槇村正直が
寺町通の賑わいに眼を着けて、
その東側に
「 新京極通 」を作りました。
たらたら坂
新京極通は、三条通 ~ 四条通の
短い間の通りと書きましたが、
三条通と交わるところが
緩やかな「 坂 」になっています。
ここを
通称「 たらたら坂 」
といいます。
西隣の寺町通は、
そんな坂になっていないので
めっちゃ不自然です。
坂を下るときに雪駄が
「 たらたら 」あたることから
名付けられたといわれています。
この不自然な坂ができたのも、
またまた秀吉が関係しています。
秀吉が
増田長盛 (ましたながもり) に命じて
三条大橋 を日本ではじめて
石柱の橋に改修したときに、
三条通を寺町通まで延伸しました。
しかし当時の三条大橋から寺町通の間は
鴨川の河原でした。
そこで、
新たに土を盛って道を作ったため
河原より三条通が高くなりました。
そして明治になって新京極通が、
その鴨川の河原に新設されたので、
三条通と交わるところに
高低さを解消するために
「 たらたら坂 」ができました。
御幸町通
北は丸太町通 ( 御所の南の端 )
~ 五条通までの通りです。
これも秀吉が新設させた道で、
自分が伏見から京都御所へ参内するとき
便利なようにと造らせた道です。
なんとも贅沢な話ですね !
後から造られた道なので、
不自然な角度で五条通と
合流しています。
松原通
秀吉が方広寺を建立したときに、
現在の五条通を新設し、
元々あった五条通を
現在の松原通としてしまいました。
なので、牛若丸と弁慶の決闘は、
現在の松原通にある
「 松原橋 」でありました。
牛若丸と弁慶の石像は、
現在の五条通にありますが 。
良くも悪くも、
京都の街には秀吉が深く関わっています。
大阪の秀吉人気とは違い、
京都では無理やり道を作って
住民を立ち退きさせたり、
お寺を移転させたりしたので、
あまり人気が無いかもしれません。
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Source: 京都 ブログ ガイド